はだしの英雄アベベ・ビキラの栄光と大人気シューズオニツカとの関係とは?
1964年東京オリンピックのマラソン競技ではエチオピアの哲人にしてはだしの英雄、アベベ・ビキラが並み居る強豪相手に圧倒的な走りで優勝した。
前回のローマオリンピックに続く二連覇は始めての快挙だった。
しかもゴールした後疲れた様子も見せず整理体操をし、大群衆を驚かせた。
はだしの英雄アベベ・ビキラ
アフリカ大陸のエチオピアの小さな農村で生まれたアベベは小学校は一年しか行かず家事を手伝っていた。
19歳の時エチオピア最後の皇帝ハイレ・セラシエの親衛隊に入隊、訓練の一環でその足の速さを注目されローマオリンピックの強化選手に選ばれ、そこでスエーデン人のニスカネンコーチの指導の下、才能を開花させていった。
ローマオリンピック代表選考会で二位になりマラソン代表に選出された。
ローマオリンピックでは直前に靴が壊れてしまい自分に合う靴が無かったという理由で素足でオリンピックに出場。
レース半ばで先頭に立ち当時の世界最高記録の2時間15分16秒で優勝する。
1937年から1941年までローマの地イタリアに侵略、占領されていたエチオピア国民は歓喜しアベベははだしの英雄となったのです。
オニツカ
オリンピックチャンピオンとなったアベベには世界各国からマラソンの招待状が届き、ニスカネンコーチは戦略的にレースを選び、次回大会の東京オリンピックを見据える意味で日本の毎日マラソンに出走する事になった。
このときもやはりはだしでの出走を希望したのだが、鬼塚株式会社(現アシックス)社長鬼塚喜八郎がホテルに訪問し素足と同じくらい軽い靴を提供するから是非履いてくれと説得し、オニツカをはいたアベベが毎日マラソンで優勝した。
その後もオニツカシューズをアベベに送り続けていたが、当時はスポーツ用品の専属契約と言う概念がなく、後の東京オリンピックではアベベはプーマ製のシューズを履いてオニツカをがっかりさせた。
東京オリンピック
東京オリンピックの国内予選で優勝したたアベベは代表に選ばれるが、緊急事態がおこる。
東京オリンピックの6週間前に盲腸の手術を受けることになったのだ。
円谷幸吉や君原健二、寺沢徹など有力選手を擁し虎視眈々と東京マラソンでのメダルを目論む日本代表選手のコーチたちはアベベの2連覇はないだろうとマークを外した。
しかしレースが始まってみると、中盤から独走態勢を築き、2時間12分11秒の世界最高記録という危なげない走りで優勝を飾り、2大会連続優勝を果たした。
マラソン史上2連覇はアベベが初めての快挙だった。
この当時の小学生の間では、「あべ」君は大抵「アベベ」と言うあだ名になったそうです。安部首相もやはりそうだったそうですよ。
栄光の後の影
東京オリンピック後もレースで優勝をつづけてはいたが、優勝タイムは平凡なものであった。
続くメキシコシティーオリンピックでもエチオピアの代表に選ばれたが、トレーニング中の故障と年齢による衰えでメキシコオリンピックマラソン本番は途中棄権となってしまったが、同僚のエチオピア選手の優勝でエチオピアが3大会連続優勝を成し遂げ、マラソン王国エチオピアを世界各国に印象づけた。
しかしアベベのアスリートとしてのキャリアは終わりを迎えることになる。
メキシコオリンピックから半年後アベベは車で事故をおこし、下半身不随となってしまったのです。その後懸命なリハビリ生活を続けるも、41歳という若さでその生涯を終えた。
エチオピアの英雄に敬意を表し、故郷にはアベベの名を冠した国立スタジアムがあります。
エチオピアは標高2000mに位置する高地で酸素が薄くその高地でトレーニングすることにより心肺機能が高められるという高地トレーニングは、現代マラソンでも取り入れられており、アベベの活躍が導入のきっかけになったのです。